初稿:2011.07.27
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※光ノ章の本編です

3-07【魂牢】


 闇が次第に濃度を増していく。 静寂の中、互いの息遣いと石段を打つ靴音だけが周囲に響いていた。

 ―――カラン……

 シャルロットの靴先に硬質な感触が伝わる。

「ん?」

 音の正体を確かめようとシャルロットの視線が足元に向いた瞬間―――それは起こった。

「きゃあ」

 シャルロットの左脚に何かが絡みつくような感覚が走る。

「シャルロットさま!?」

 背後を振り返ったミルフィーナの両眼が驚愕に見開かれる。
 角灯の光に照らし出されたシャルロットの四肢に半透明な蜘蛛糸のようなものが纏わりついていた。 それは瞬く間に数を増し、少女の身体を巻き込んで虚空へ引き上げようとする。

「上か!?」

 抜き打ちに放ったエドゥアルトの短剣が、上層の闇に呑み込まれて消える。

「ひっ……」

 吸い寄せられるように見上げたシャルロットの視界に血色の燐光が映り込んでいた。 それは見る者の正気を失わしめる光彩―――心の弱いものが見れば、それだけで発狂してもおかしくない冥らい輝きであった。
 シャルロットの身体が、ゆっくり……まるで獲物が味わう恐怖をも楽しむかのように緩慢な動きで引き上げられる。

「間違いない、あれは“深淵に潜むモノ”じゃ……」

 屍族である首人の暗視眼が常夜の奥で蠢く異形を捉える。
 円形の蜘蛛網の中心に浮かび上がった姿は、この地上に存在する生物のものではない。 瓢箪のような頭胸部から四対の歩脚と一対の触肢を生やし、黒檀色の繊毛に覆われた頭部には真紅の瞳が三つ輝いている。 人間とは似て非なる汚れた口蓋から、先端が細く鋭い鎌状の鋏角が伸び、紫色の液体が滴っていた。

「深淵に潜むモノ?」

 首人の呻きをエドゥアルトが聞き咎めた。

「神代に堕ち神の魂を喰らう為に生み出された生物だと聴いたことがある。 本来、幽界に身を置く存在であるらしいが、メナディエルの魂の波動に呼び寄せられて顕界に現出したのじゃろう」

 首人が苦苦しくはき捨てる。

「だが、なぜシャルロット姫を?」

「リュズレイの血脈からメナディエルの魂の記憶を嗅ぎ取っておるのやも知れぬ」

 無論、それだけはあるまいがな。 心裡で付け加えると首人は、ノーラとエドゥアルトに小声で指示をだす。

「はい」

「まったく人遣いの荒いことだな」

 螺旋階段を駆け上がるノーラを、愚痴りながらもエドゥアルトが追随する。

「くっ、どうなっている?」

 ミルフィーナの表情に焦りの色が浮き上がっていた。 幾ら斬りつけようとも、半透明の糸には傷ひとつ付かない。 それどころか、空気や水を斬るように、まるで手応えがなかった。 しかも、どういった原理か、実体の存在しない細糸はシャルロットにのみ物理的な干渉を果たしているようである。

「ミルフィーナ団長……」

 その隣では肩で息をしたシーラが長剣を片手に呆然と立ち尽くしていた。

「くそっ……」

 ミルフィーナが唇を噛む。 眼前では、為す術もなくシャルロットが虚空の闇の中に吊り上げられていく。

 ―――シュルルゥゥゥ

 深淵に潜むモノは器用に触肢を使い、糸を手繰り寄せていた。

「聖女さま目を閉じてくださいっ!!」

 その時、一同の頭上からノーラの声が響く。

「……ノーラ?」

 見上げたシャルロットの視界に、螺旋階段から伸びた横梁の上に這い蹲るノーラの姿。 隣には火打ち石を片手にエドゥアルトが佇んでいた。
 シャルロットは小さく頷くと、忠告に従いきつく両眼を閉じる。

 ――バシュ……シュウゥゥゥ……

 上空から粉塵と鉄片が降り落ち―――次の瞬間、弾けるような音と共に深淵に潜むモノが大きく体勢を崩す。
 足場にしていた蜘蛛の巣が瞬く間に炎に包まれていく。

「なるほど、首人殿の仰る通り炎は効果的なようだな」

「いや、失敗じゃ。 やはり俗界の炎程度では滅しきれぬか」

 首人の苦顔が示す通り、炎の中から黒々とした巨体が這い出してくる。

 ―――ギィ…キィィィ……

 苦悶にのたうつ深淵に潜むモノの口蓋から大量の消化液が零れ落ちる。 それはシャルロットの頭上にも降り注ぎ、図らずも左腕を縛る蜘蛛糸が引き千切れる。

「届いて!」

 シャルロットは身体を揺すり、吹き抜けに垂れ下がる鎖束へと無我夢中で手を伸ばす。

「つっ……」

 錆びてざらついた連環の感触を引き寄せた時、シャルロットの指先に鋭い痛みが走った。 目を凝らすと、鉄鎖の束の隙間に一振りの短剣が挟まっている。

『その魔物の弱点は逆三角に並んだ三眼の中心です』

 不意にシャルロットの頭の中に聞きなれない声が響く。
 声の人物を誰何する暇はなかった。 意を決すると、自由になった左手で短剣の柄を握りなおす。

「えいっ」

 シャルロットは無我夢中で短剣を振るった。

 ―――キィィィ……ギキ…ピィ…ピュ……

 刀身に鈍い感触を感じた直後、ひきつれた咆哮がシャルロットの鼓膜を揺さぶった。
 少女の膂力では、深淵に潜むモノの外皮を突き破るには至らなかった。 しかし、怯ませるには十分だったらしく、蜘蛛糸の束縛が解かれ身体が宙に投げ出される。

「シャルロットさまっ!!」

 それを見たミルフィーナが躊躇うことなく虚空へと身を躍らせる。 炎塵を掻き分けて、少女の身体を空中で無事に受け止めると、鉄鎖へと腕を伸ばす。

「くっ」

 ふたり分の体重が右腕一本に掛かり、ミルフィーナの顔が苦痛に歪む。

「ご無事ですか?」

「……フィーナ!?」

 ミルフィーナの声に閉じていたシャルロットの両眼が開く。
 だが、安心したのも束の間、絡みつくような悪寒がふたりの背筋を貫いた。

 ―――フュ……シュゥゥ……

 深淵に潜むモノが重い油の中を泳ぐように間近に忍び寄っていた。
 ミルフィーナはシャルロットを庇いつつ、鉄鎖を伝い下方へと距離を取る。 だが、絶望的な逃避は直ぐに終わりを迎えた。 命綱であった鉄鎖がふたりの命運を予期するように足元で途切れていたのである。

「ここまでか……」

 ミルフィーナが苦渋を顕に唇を噛む。 せめてシャルロットだけでも、助かる方法をと模索するが状況は絶望的に閉塞されていた。

「まだです。 フィーナ、試してみたいことがあります。 わたしを信じて貰えますか?」

 だが、シャルロットは諦めていなかった。

「勿論です。 私奴の命ならご自由にお使いくださって構いません」

「うふふ、でも今は此方をお借りしますわ」

 シャルロットがミルフィーナの腰元から小剣を抜き取る。 そして止める間もなく、己の二の腕に刃を滑らせた。 少女の純白の肌から濃厚な鮮血が滴り刀身が朱色に染まる。

「シャルロットさま!?」

「これであの魔物の眉間を狙ってください」

 シャルロットは驚くミルフィーナに血塗れの小剣を手渡すと、微笑みかける。

「わかりました」

 意図を悟ったわけではない、だが、ミルフィーナに迷い疑う余地はなかった。
 降り落ちる火の粉を振り払う裂帛の気合と共に小剣を突き上げる。

 ―――ギキィィィ……ギュ…ギィィィ…

 断末魔の絶叫。
 深淵に潜むモノは三眼の中央を深々と貫かれて、闇の底へと落下していった。

「よかった」

 シャルロットは上腕部から響く鈍痛に顔をしかめながらも、安堵の息を吐く。

「シャルロットさまの血があの魔物を?」

「はい、わたしの血で濡れた短剣が魔物に傷を負わすことが出来た。 だから、ひとつの可能性として検討に値すると思いました」

 つまり、シャルロットはリュズレイの血そのものが、幽界に身を置くモノに干渉することが出来ると、考えたのだろう。

「どうやらシャルロットさまの機転に命を救われたようですね」

「いいえ、わたしだけでこの窮地を切り抜けることはできませんでした。 フィーナが傍に居てくれたから」

 互いの台詞にこそばゆさを覚えたのか、シャルロットとミルフィーナは僅かに頬を染めて微笑みを交わす。

「仲睦まじいのは結構だが、そろそろ上がってきたくはならないかな?」

 そんな両者を横梁の上からエドゥアルトが見下ろしていた。 片手で荷袋から取り出した救助用の荒縄をチラつかせている。

「いいから早く助けなさい」

 見上げたミルフィーナが可愛げの欠片も無く催促する。

「おいおい、そんな態度だと助けるのを止め―――がっ」

「いい加減にしてください」

 背後から現れたシーラがエドゥアルトの後頭部を問答無用で殴りつける。 そのまま奪い取った荒縄を手際よく横梁に結びつけて、もう一端を下方に向けて投じた。

「ありがとうございます」

 シャルロットは足の裏に石段の感触を得た瞬間、その場にへたり込んでしまう。
 そこに双子の騎士が駆け寄り、少女の傷口に応急措置を施した。 思いの他、出血は酷かったが、大事には至らぬようで、薄皮を軽く切り裂いた程度の軽傷であった。

「シーラにノーラ、それに首人さま助かりました」

 次いで引き上げられたミルフィーナが、ごく一人の例外を除き謝意を告げる。

「いやいや、相手がむさい男ならたんまり礼金を要求するところだが、お二人なら熱い口付けだけで―――」

「貴様に感謝をした覚えはないぞ」

 皆まで言うこと無く、エドゥアルトの提案は却下された。


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