初稿:2009.03.11
編集:2013.05.24
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※光ノ章の本編です

1-02【古怪】


「ファティマ様はお母様をご存知なのですか?」

 シャルロットの意識の深層から、亡き母親の記憶が浮かび上がる。 しかし、それは少女が成長するにつれて靄がかかったように不確かな存在へと変貌していった。 心の奥底に封じ込められていた澱みが意識の表層に漂いだす。

 それは―――赤

 視界が紅く染まる。 生臭い匂いが鼻を突く。 記憶の奥に撒き散らされた鮮血が全てを斑に彩っていた。
 転瞬、シャルロットの視界がぐらりと揺らいだ。

「シャルロット様!?」

 ミルフィーナがよろめくシャルロットの身体を背後から支える。 少女の肌から急速に体温が失われていた。 蒼ざめた相貌に汗の粒が浮き上がる。

「……ごめんなさい、大丈夫です。 それよりもお母様の話を聞かせてください」

 萎えかける両脚を意思の力で支えると、シャルロットは気丈に振舞った。
 エレシアム・リュズイレは十二年前、公国の第二王女を出産して間も無く失踪する。 そして三年後、彼女はロンザロス大火で焼失した教会街跡地で発見された。 その後、当局から異端の嫌疑を掛けられたエレシアムは、教会の監視下の元、幽閉された牢獄内で流行り病に犯されて最期を迎えた。 それがシャルロットの知る全てである。 エレシアムに関しては誰もが口を閉ざし、それ以上のことを知る術はなかった。 だが、ファティマ・イスは教会に於ける異端審問の全てを司るイス家の人間である。 エレシアムが異端者の烙印を捺されたのならば、シャルロットが知り得ぬ“何か”を存知していても、なんら不思議はなかった。

「お気持ちは重々承知致しておりますが、今は止めておきましょう」

 ファティマ・イスはシャルロットの複雑な心裡を知ってか知らずか、やんわりとその申し出を断る。

「で、でも……」

 尚も食い下がろうとするシャルロット。
 しかし、ファティマ・イスは無言で首を横に振ると、

「いずれ時が来ればお話することになるでしょうから。 なにより―――」

 ファティマ・イスがシャルロットの背後へと目配せする。 少女の肩越しに貫くような厳しい眼光が、女枢機卿へと向けられていた。

「それを望んでおられぬ方もいらっしゃるようですしね」

 ファティマ・イスが肩を竦めて苦笑する。
 淡い期待が焦燥と落胆へと変わり、シャルロットは舌を噛みそうな心持でうな垂れていた。

「聖女殿の母君のことならば余も僅かだが記憶しておる。 他愛無い雑談で構わなければ話して進ぜよう。 如何かな?」

 思わぬ方向からの助け舟、それを発したフォン=バレル三世の唇が笑みを模っていた。

「……ですが」

 シャルロットは仄かな動揺と共に口篭る。 先の聖誕祭での出来事が脳裏を掠めたのだろう。 少女は左手を庇うように胸元へと抱き込んでいた。

「子が親の姿を追い求めるは真理。 なにも遠慮することはない。 それに余がここに参ったのは、聖女殿を“水晶の塔”に招待する為。 そこでなら余計な邪魔も入るまい」

 フォン=バレル三世の双眼が怪しく輝いた瞬間、シャルロットの紅玉眼が暗く濁った。

「……はい、確かにお話を承りました」

 シャルロットがぼんやりと応える。 左手に穿たれた傷口が熱をもったように疼き、正常な判断力を奪っていくようだった。

「お待ちください」

 それまで押し黙っていたミルフィーナが声を張り上げる。 場の成行きから察すれば、よく我慢したほうであろう。 女枢機卿との無言の遣り取りから察しても、ミルフィーナがエレシアムの過去を知った上で、真実を伏せているのは明らかであった。

「聖下、シャルロット様はお体が優れないご様子。 どうか私奴の同行をお認めください」

 それがミルフィーナに譲歩できる限界である。 いざとなれば力ずくにでもシャルロットを連れ帰る算段であった。
 聖アルジャベータ騎士団はメナデェルの信義を旨とする。 だがその忠誠は全て聖女の血縁者へと向けられていた。 ミルフィーナは教皇の思惑に顧慮するつもりはないようだ。

「ミルフィーナ・ド・グラドユニオン、言葉を慎みなさい。 一介の騎士風情が、聖下のご意思に背反するなどあってはなりませんわ」

 シャルロットが厳しい口調で窘める。 それはミルフィーナの行き過ぎた発言を庇う意味もあったのだろう。

「シャルロット様……、しかし―――」

 ミルフィーナが言葉を詰まらせる。

「それにわたしも聖下にお伺いしたいことがあります。 だからフィーナは、なにも心配せずに待っていてください」

 シャルロットも姉のように慕うこの女騎士の性格を良く心得ているようだ。 少しずつ言葉を重ねることで説得しようと試みた。

「それは罷りなりません。 私奴もお供させて頂きます。 我ら守護騎士団にとって聖女の血脈をお守りすることは、唯一無二の聖務故」

 だが、シャルロットの予想を上回る程に、ミルフィーナは武人特有の石頭であった。 守護役としての義務感、いや、彼女自身の衷心がそれを嚥下させないのだろう。

「ミルフィーナ卿、水晶の塔は聖下ご自身でさえ護衛を伴うことを許されてはいません。 それは裏を返せば、そこに危険がないことの証明でもありますわ」

 見かねたファティマ・イスが二人の遣り取りに口を挟む。
 水晶の塔はこのアレシャイムで最も天に近い場所。 教皇が女神メナディエルの信託を授かる聖域である。 そこは古より教皇位を世襲するフォン家の人間以外の立ち入りは原則禁じられている。

「それとこれとは関係ありません」

 こうなってはミルフィーナは一歩も退かない。 頑固なのか実直なのか、決して自己の意見を曲げようとはしなかった。
 融通の利かない護衛役を前にして、シャルロットは大きなため息をつく。 仕方なしに、少女は最終手段を講じることになった。

「フィーナは、わたしが礼節を重んじない恥知らずだと陰口を叩かれてもよいのですか?」

「で、ですが……」

 衷情を逆手にとられては、ミルフィーナも口を噤まざるを得ない。 そして、如何にも口惜しそうに瞑目する

「……わかりました。 ですが、どのような状況においても、常に御身の安全を第一に考えてくださりますよう」

「ありがとうフィーナ。 でも、本当に心配は要りません。 聖下にお話を伺ったらすぐに帰ってきます」

 シャルロットは努めて歯切れ良く断言した。 そして口を真一文字に結ぶと、フォン=バレル三世に向き直る。

「お見苦しいところをお見せしたこと、深くお詫び申し上げます。 聖下のご丹心謹んでお受けいたします」

「宜しい、ではさっそく水晶の塔へとご案内致しましょう」

 フォン=バレル三世は、何事もなかったかのように柔和に微笑んだ。

「そう、心配はない」

 シャルロットは己に言い聞かせるように小さく反芻した。

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 聖宮の奥回廊には、美術史において計り知れない価値を宿した巨大な絵画の海が広がっていた。 好事家垂涎の光景だが、今のシャルロットに目を配る余裕はなかった。 前を行くフォン=バレル三世の大きな背中を見つめ思考する。
 フォン家の長子であったグランディエは、教皇位を継承するとウェルティス・フォン=バレル三世と法号を改めて、善政に努めた。 清廉潔白で贅沢を嫌い、教皇庁に蔓延る古き悪習の撤廃を推進する姿は、歴代教皇の中でも屈指の聖人と讃えられた。 しかし即位後、僅か二年で彼は病に倒れる。 病床から療養の合間に職務を遂行するという状態が長く続いた為に、心身に負担の掛かる長時間の式典などには代理を立てることが多かった。 近年、その病状は悪化の一途を辿り、近しい者達の間では余命幾ばくもないと専らの噂であった。
 故に此度の聖誕祭も、教皇が担う斎行については代理が立っていた。 しかし、周囲の心配や危惧を一掃するようにフォン=バレル三世は姿を現した。 絢爛たる装いに確かな足取り、その両眼には強き意志を宿していた。 死に直面している人間とは到底思えない堂々たる様子に、誰もが驚きを禁じえなかった。
 しかし、民衆から賢聖とまで称された現教皇の健在ぶりは、メナディル正教にとっても明るい材料だ。 特に改革派の聖職者達は、さぞ安堵の息を漏らしていたことだろう。
 シャルロットもフォン・バレル三世の温厚な人柄には少なからず好感を持っていた。 だが左手の傷口から伝わる鈍痛が、彼に対する警戒と同時に、この人物には逆らってはならないという根源的な恐怖を少女の心に植えつけていた。

「なにかご心配がお有りですかな?」

 僅かに歩を緩めて、フォン=バレル三世がシャルロットに語りかけてきた。 その声から、少女の心裡を覗き込もうとする底意が感じられた。

「い、いえ……」

 しかし、シャルロットが言い淀むと、それ以上の言及が降り注ぐことはなかった。
 更に歩を重ねて、黒曜石の階段を上り東外回廊にでる。 外界は夜の帳が完全におりて、刺すような冷気に熟れた甘い香りが混在していた。 空中庭園に咲き乱れる花々の芳香が、風に運ばれてここまで届いているようだ。 教皇領はバールペオル大陸の北東に位置するソウルガイス諸島群でも、絶壁の断崖に囲まれたルブリス島に存在する。 標高が高い為に、平地では残暑を感じられる今の時期も、夜になればかなり冷え込んだ。
 そして、圧迫するように左右に立ち並ぶ柱列の先で不意に視界が開ける。

「これが水晶の搭……」

 シャルロットの声が驚愕に掠れる。 
 目前に天を貫くような強大な石の塊が姿を現していた。 遠目に見ても美麗な佇まいであったが、目近にすると更に圧倒された。 外壁は水晶細工技術の粋を集めて造られた美麗な黒水晶の層で覆われて、硬質な輝きを放っている。 それがこの宝塔が“水晶の塔”と呼ばれる所以でもあった。
 シャルロットは塔へと至る柱廊を歩みながら、どこか釈然としない予兆めいたものを感じていた。 ここに来るまでに護衛官どころか、聖宮内の誰ともすれ違っていない。 まるで意図的に用意された無人世界に迷い込んでしまったような錯覚を覚えていた。

「どうぞ此方に」

 フォン=バレル三世が先を促す。
 水晶の塔は外部から完全に隔離されている。 塔への入り口は地上にはなく、聖宮の東外回廊から塔の四階部分に設置されている鉄門へと、跳ね橋を降ろして渡るしか方法はない。
 しかし、そこに橋守の姿はなく―――その必要も今はない。 目的地と至る跳ね橋が既に降りていたからだ。

 シャルロットはこの舞台から降りる術を完全に失っていた。


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